日々のこと12

流 行 歌

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 ぼくは一応ではあるものの、ポピュラー音楽にたずさわっているので、
たとえば現在カラオケの場などで歌われるものは、
まず歌えるだろうとかんちがいされることがある。

 実際にはほとんど歌えない。
 ぼくの流行歌は日本では澤田研二さんの若いころで打ち止めだ。
フォークも井上陽水さんあたりまでかな。
外国のポピュラー音楽ならビートルズまでで終るというように、
ダイジョウブデスカと言われそうなレベルである。
 その訳は、云うまでももなく流行にうとい資質の上に、
そんな年代の仲間いりをしたということだと言えるけれど、それなりの弁解を考えてみた。
以下。



 まず、たとえばテレビのヒットチャート番組で聞こえてくる歌の旋律が入って来ない。
というか、ぼくが思う旋律がどうもそれらにはあんまり無いようなのだ。
音符におきかえることは、ぼくにでも可能だけれど、
情感の変化、高揚とともにメロディが動いていっている気がしない。
どうも、情感というものの定義がずれちゃったとしか言いようがなさそう…。
 
 そして、言葉(ここでは日本語)が入って来ない。
発音の違いがけっこう大きいようだ。
 たとえば、若い世代に日常せっする時きく言葉が聞き取りにくいのはぼくだけなのか。
日々店のレジなどでは、たびたび聞き返してしまう。
口の中でくちゃくちゃ音がするだけで、
意味として聞こえにくくて困ってしまうのは、ホントにぼくだけなのか。

 最近読んだ本を基準に言うと、ぼくのように伝えようとするのは、
おしつけがましい、ヤサシクナイということらしデス。
だから、たとえばファーストフードという舞台でレジ係と客というシチュエーションであれば、
伝え合うことはきまっているでしょう、
それをコトサラなんて、ドウカシテイルというような具合に…



 発音の違いとしては『巻き舌』っぽく日本語を歌ったのを聴くときがそんな思いのピーク。
 ぼくの耳は理解することを、まるで拒否するかのように、
まっ、ワカンナクテモイイや、となってしまいますデス。

 もひとつ、濁音。
 地方によってはないのを承知しているつもりだけど、鼻濁音がふつうの発音のおりに、
ことさら濁音のまま歌う人のものは、スイッチのある装置の場合は消すし、
立ち去れるのならヨロコンデさよならすることとなる。
 となると、現在の和製ポップスはほとんど、ぼくが抵抗なく聴くのは無理かもしれない。



 ちょっとばかり、ポピュラーソングから離れて、歌としてはなしをすすめてみたい。
 
 真っ二つに別けることは不可能に近いけれど、
傾向程度のはなしとしては、メロディを日本語としてまず捉えているか、
音(音符)として捉えているかに大きく別けられると思う。
ぼくは言葉、つまり個別としては日本語派にまちがいないはずだ。
フォークソングというちいさなカテゴリーでさえも、両方ある。
ぼくなりに誰それはどちらと言えるのだけど、ここでは必要がないのでしない。
 
 そして、クラシックの外国の曲に日本語をつけたもの。
もちろん外国の曲なのだから、旋律と日本語の間に無理が゛あるのは当たり前だけれど、
クラシックの歌い手で日本語寄りに歌っているのを聴いたことが、ぼくはない。

 どうして断定できるかというと、ぼくがそんな歌をうたおうと思うとき、
日本語の情感にあわせて、旋律を変えることがたびたび必要になるからだ。
旋律をかえなければ、この日本語はつたわりにくい、
旋律をかえることで情感はもっとスムーズに伝わると思う場面にけっこう出くわすのだ。
 つまり、旋律を変えるようなマネはクラシック音楽では、
ほめられたことではないということなのだろう。

 


 つぎにぼくの独断と偏見による分類だけど『巻き舌音楽』。
 これが実は、事情のいかんにかかわらず、
クラシックの歌曲にある問題とそんなに変わらない。

 いえ、ぼくにはですよ。
 そしてたまたまぼくが、そんな歌をうたう必要にせまられたときは、いわゆる『ノリ』とやらに、
ちょっと遠慮してもらって、言葉の意味や情感をつたえることに、ハシル。
 
 結論。
 こうやってあきらかにしてみると、ぼくの歌は『オニッコ』だね。
古き権威ある業界からは、ハシタナイと言われ、
いきのいい流行歌の世界からはフルインジャナイノ?と言われてしまうだけなのだろうネ。

 だけどさ、やめられないもん…ダカラ…キイテネ…




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