日々のこと 48
携帯デハナイデジカメnikki vol.3
く、くどい。
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 お笑いの人は自分で笑ったら失格だ。
このセオリーは、『作品』にも時々現れる。
この某消防署の、まっすぐな情熱に僕は感どーした。
きっと、笑顔でいることさえはばかられる役所の会議で、
このポスターは議題に上り、議論されたのだろう。
そして、さらにこうして白昼間堂々と、我々一般市民に公開されたのである。
感謝しなければならない。
 なお今回は、携帯付属のデジカメではなく、200万画素の普通のデジカメで撮った。
かなり拡大してぼけたのもあるけれど、
別に撮影クオリティを見てもらおうと言うのではないから、かまわない。
個人的には、携帯付属の200万画素のもののほうが、ぼけた感じが好きだなあ。
まがりなりにも(相当まがっているのはたしか)個性があるということか。
正しい花火、の標語  まず、上のポスターをよく見てほしい。
今回は絵は見ないふりをする。
書き込まれた『火から目をはなさずに』というのは、
どうしても避けて通れないからひとこと言わせてもらう。

もう、遅いのではないか。

 さて筆字のほう。
のほう、という表現、正しく使ってもどこか後ろめたいのは、
時代のせいか。

 左上から順に各学年の作品がならんでいる。
一年、二年と同じもの、『正しい花火』。
 もっともである。
周りに気遣い、そして法を遵守することが、まず第一義の、
日本国民を代表するイデオロギーである。
 それも、実に端的に言い切っているところがすばらしい。
いいですか、『正しい花火』ですよ。
わかりますか、正しいんですよ。

 ほんとは、僕は正しい花火ってどんなのかわからなかった。
なんだか、すごく説得されたようで、実際にはピンときていないのだった。
 廊下を正しく走っていたら、
いきなり教師に拳骨をくらったオモイデとかさなる。

 それでは落ち着いて、正しい花火を考えてみる。
二十連発、なんてけっこう正しそうだ。
ねずみ花火は、しけっているとちっとも怖くなくて、
正しいとは言いたくない。
 線香花火は、正しいように見えて、どきどき感がコツブで、
僕には、正しいふりしているようにしか見えなかった。
 落下傘付きのは、暗がりで一番に手にした経験がない。
大抵、背の高い年上の悪がきに捕られたので、個人的に却下。

 たとえば中国の正月の爆竹なんてのは、
正しい花火の権化なのはたしかだろう。
三尺玉という、強烈に正しい花火も世の中にはある。
火の用心、の標語 『火の用心』は、三年生。
正しい花火からいきなり火の用心への展開は、難解だ。
皆さんにおかれましては、理解できるかな。

 正しい花火を、用心しながら全うしようというのは至難の業だ。
花があり、かつ活気のある正月を、
毎年、用心しつつ迎えてられるのだろうか、中国では。
 いくらなんでもハイドンの『花火』のフィナーレを、
用心のあまり、高さ制限のある五連発程度にはしてほしくない。
 そういう、一般市民のつぶやきが聞こえてくる。

 いや、大丈夫です、こう解釈します。
 この作品を書いた子の真意は、
正しいと思えるものにでさえ思慮深くかつ用心深く対処しなさいとゆう、
日本人としての知恵とゆう、わけな、わけだ。
わかりましたかっ。
火遊びしない、の標語
 そして、右上です。
出ました、『火遊びしない』。

小学校も高学年になっての、けなげな決意表明である。
その清らかな心ねに、
昔から教育現場にある、独特の言い表し方が加味されて、
ここに見事に実を結んだのだ。
僕は幼少のころ、学校の教師の言い方、つまり、
『ナンとか、し・な・い』という、主語がなんだかわからない、
この言い回しに、ああ、僕は学校にいるんだ、
と、しみじみとした気分をあじわったものである。

 『火遊びしない』
そのとおりである。
繰り返すが、教育する側の気持ちをも、しっかりと汲んでいるのを、
我々は見逃してはいけない。
 
この子の将来は、いったいどんなものになるのだろう。
それは、イコール日本の将来なのだ。です。
いえ、ですます調だったか、である調だったか忘れたものですから。
放火に注意、の標語
 いよいよ五年生。
いいですか『放火に注意』ですよ、
間違いないです、何度読んでも『放火に注意』です。

 あなたにできますか。
おそらくこの子は、
日々の睡眠をけずっての渾身の努力をしているに違いない。
しかし、渾身の努力って言い方あるかなあ、まあ、いいか。
 
 親に将来楽をさせてあげたいと、深夜に及ぶ勉学ののち、
なんと、寝ずの番をひきうけるという、
このヘイワ国家日本にさえ押し寄せる凶悪な犯罪に対処する、
この子の決意はかたい。
ワンセンテンスが長いなあ、まあ、いいか。

 いや、これってたとえば親に、
『火、つけるぞ』って恫喝しているのかな。
親も寝不足だ。
 いやいや、深読みはやめた。
歩行禁煙、の標語  そして『歩行禁煙』をみずから戒めているのは小学校六年生。
あしかけ六年の小学校生活をだてに送ってきたわけではない。
酸いも甘いも吸い分けて、たどりついたのが、『歩行禁煙』だ。

 だいたい場所によっては犯罪だ。
あっ、この年齢では、どこででもだめだぞ。
最近の犯罪の低年層化をかんがみるに、
ここでふんづかまっては少年法改正論に火に油を注いでしまう。
おっ、火に油を注ぐ、か、標語には使えないか。
考えすぎた。

 『歩行禁煙』はシチュエーションとしては、
小学校六年生のさりげないひとり言ととりたい。
 せめて、歩いているときぐらいという、現実的な対処は、
僕ら大人も見習う必要がある。
  いじょー。

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