夢眠のフォーク畑 009
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フォーク遍歴 2
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命題A:
ものを書く作業には2種類しかないと思っている。
「書きたい」か「書かねばならぬ」かだ。
創造的衝動か義務的作業か、と言い換えてもいいし、
趣味か職業かと言えばもっと解りやすいかもしれない。
この文章にしてもそうだけど、趣味で書いてるうちは気楽なもんさね。
しかし、これでメシを喰おうと思ったら大変だ。
そもそも、ボクの書きたいものと読者の読みたいものは往々にして一致しない。
ところが、プロ(の一部?)はさすがにスゴイ。
頼まれ仕事の中でも巧妙に、自らの創造的衝動を表現してしまうのである。
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命題B:
『歌追い人』の時代のマウンテン・ピープルは、
歌でメシが喰えるなんて夢にも思っていなかった。
そんな昔でなくてもいい。
必死にP.P.M.をコピーしていた頃のコムロ青年は
フォーク・ソングでメシが喰えるなんて思っていなかったはずだ。
ところが、だ。
喰えるようになっちゃったんだよねえ。
驚いたろうね。
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命題C:
フォーク・ソングが好きだって人に訊いてみるといい。
どんな「フォーク」が好きなのかをどんどん突っ込んで訊く。
詰まるところ、演歌ほど臭くなく、ロックほどリズム重視じゃなく、
ギター一本で伴奏できるような
シンプルで柔らかなメロディー・ラインの曲で、アコースティック系の歌、というところに尽きる。
庶民の考えるフォーク・ソング感はそんなところだ。
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上記3つの命題から導き出される結論は、
つまり、好きだから歌っていたフォーク・シンガー達は、
喰うために世間の要求に応えなくてはならないことになる。
自分の作りたい歌を作り、歌いたい歌を歌う、なんてのはわがままになってしまう。
それだけじゃ売れないし、プロとしてあるまじき姿ということになってしまった。
左翼用語かもしれないけれど、音楽資本に取り込まれちゃったのである。
可哀想だったなぁ、『ガロ』……って分かる?
前に「フォークとは、伝統性と音楽性とメッセージを兼ね備えた音楽」っていう、
ボクなりの定義を示した。
このうち、伝統性については(いつか書くけど)諦めることにした。
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で、メッセージというと、多くの人が反戦とか平和とかにこだわるのだけど、そうじゃない。
別に自然でも愛でも、人間の生死や日々の営みでもいい。
その人なりの何か混沌めいた感情を、その人なりに表現してくれればいい。
その世界観がボクと共通するなら「好きな歌」だし、
ズレていれば「好きじゃない歌」というだけだ。
そこまで感じさせてくれる歌を、好き嫌いは別にして、
ボクはフォーク・ソングと呼び、そうじゃない歌を歌謡曲と呼ぶ。
そんなふうにボクが腹を括ったのは23歳のとき。
自分で稼ぎ、酒も飲むようになってからのことだ。
フォーク・ソングを調べ始めて4、5年経っていた。
その尺度で測ってみるとね、いやあ、けっこうあるぞ、フォーク・ソングん中に歌謡曲が。
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で、さらに気づいたのだ。このモノサシでいいんだって。
だって、さ。
仕事でミスして、ヤキトリ屋で一杯飲ってるときに沁みるのは、歌謡曲だぞ。
類型的な言葉と手口で、他人の弱みに付け込む詐欺師のように忍び込んでくる。
さすがにプロはうまい。職人芸だ。
それだけの「しなやかさ」と「したたかさ」を内在しているフォーク・ソングを探している。
今も……。
夢眠
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