夢眠のフォーク畑 018 |
アダムとイヴ |
フォーク畑表紙へ ホームへ |
|
アダムとイヴをうらやましく思うことがある。 食うもの着るものなんぞはそこらあたりからちぎってくればいい、 ということもあるのだが、歴史認識の確実さにおいて、である。 「昔はどうだったの」と訊かれたら、自分の体験を話せばいい。 で、切り札はこれだ。 「知るもんか、歴史は俺から始まった」。 台詞としてもカッコいい。 ただし、あの2人、理論上、お腹の真ん中にヘソはないはずだ。 なんとなく、落ち着かないだろうなあ・・・って分かりますか。 |
![]() |
フォーク・ソングにとってのアダム(なりイヴなり)は誰か、という質問はかなり難しい。 ある日突然ポコッと産まれたもんではなくて、 歴史の、あるいは生活の中に連綿として続く「歌」が、 いつしかフォーク・ソングと呼ばれるようになったからだ。 しかし、だ。60年代のフォーク・リバイバルあたりでとりあえず区切らせてもらえば、 ウディ・ガスリーが仮にそう自称したとしても、たぶん、誰も非難できないだろう。 あのボブ・ディランは彼に憧れてニューヨークに出てきた。 61年のことだ。ウディは難病ですでに病床にあったが、 彼を囲む「子ども」たちの助力もあってデビューすることになり、 そのデビュー盤に『ソング・トゥ・ウディ』という曲を収めた。 |
![]() |
・・・などという話を繰り返しするものだから、友人のひとりが根負けしたのか、 「一度聴いてみたい」と言った。 だから貸してやったのに、ほどなく返ってきた。 「全部、同じ曲に聞こえる〜」という悲鳴とともに。 ま、高田渡や中川五郎の歌う邦訳あたりが無難かもしれない。 共通するのは、耳コピーは難しくないってことだ。 コードなんか3つか、せいぜい4つ知ってりゃいい。 が、歌の雰囲気というか、間(ま)が難しい。 出せない。 歌えない。 |
![]() |
顔なじみの店にウディのCDを持ち込んだことがある。 マスターが「へえ、カントリーも聴くんだ」と、酔っ払ったボクに言った。 これはこれで正しい。 で、そのマスター、少しばかり英語がわかるもんだから、しばらく聴いたあとでこう言った。 「コイツ、地べたを這ってるね」。実に正しい。 「初めの頃のボブ・ディランに似てる」。 これは違う。 ボブ・ディランに似てるんじゃなくて、ボブ・ディランが似せてるんだ。 つまりは、そんな音楽だ。 マスターの年恰好を考えて、 「うーんとね、『アリスのレストラン』の親父」 というボクの言葉は理解してもらえなかったみたいだけど。 |
![]() |
もし、彼の人生を知りたければ『ウディ・ガスリー/我が心のふるさと』という映画がある。 ビデオ化されているはずだからご覧あれ。放浪癖はあるわ、 すぐにケツをまくって職を失うわ、嫌なヤツだと思うこと請け合いだ。 少なくとも彼が父親なり亭主であれば、その楽天的な性格までもが腹立たしくなる。 ただし、叔父さんとか師匠なら・・・。 かなり魅力的な人間かもしれない。 そうでなけりゃ、ピート・シーガーやボブ・ディランを筆頭に、 当時のフォーク・ソングの担い手たちが 「ガスリーズ・チルドレン」などと呼ばれたりするもんか。 「日本のフォークは俺から始まったんだ」。 コムロ御大ならそう言っても許されそうだ。言うかな? だとすれば、編集長は「ひとしズ・チルドレン」? まさか「コムロ・ファミリー」じゃないよね。 夢眠 |
|
フォーク畑表紙へ ホームへ |
![]() Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp) |