歌のはなし  曲名 公表作品 作詞者 作曲者
045  星雲の群れと僕らの会話と一体どっちが本当だっただろう 『名前の無い君の部屋』  及川恒平   及川恒平 



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いわゆる16ビート
ってやつでしょうか。
復刻盤そろそろ出ます。参考まで。


   A      F♯m7   D         A
鳥の翼 はばたく    風が 僕の背中に
   A      F♯m7   D         A
鳥の翼 はばたく    風が 渦 をつくる
  F♯m7    A     F♯m7  A
神に連れ去られた  あなたの  心は
   A      F♯m7       A    ÷
それでも ひもじさに  哭いていた
F♯m7          A     
光を持てない 星くずの
F♯m7            A
ひとつひとつに名前をつけて
F♯m7         A9    ÷     ÷
誰が声を掛けるだろう

   A      F♯m7   D         A
鳥の翼 はばたく    風が 骨の側に
   A      F♯m7   D         A
鳥の翼 はばたく 風が 歌をつくる
F♯m7     A      F♯m7    A
真っ白な子供達への  子守唄は せめて
   A      F♯m7       A    ÷
倹しく いつまでも   眠るようにと
F♯m7          A 
終わりの鐘が 聴こえる
F♯m7           A 
都市(まち)を洗う波の力が
F♯m7         A9    ÷     ÷ 
あなたの中から 聴こえる

   A      F♯m7   D         A
鳥の翼 はばたく    風が  僕の心に
   A      F♯m7   D         A
鳥の翼 はばたく    風が  滴をつくる
F♯m7     A      F♯m7    A
滴になり 海に     海になり 平和に
   A      F♯m7       A    ÷
それでも ひもじさに  哭いていた
F♯m7          A  
七変化の海が 見える
F♯m7          A  
閉ざされた扉を 透かして
F♯m7         A9    ÷     ÷
あなたの乳房が 見える

F♯m7           A9    
星雲の群れと僕等の会話と
F♯m7             A9    
一体どっちが本当だっただろう・・・
     F.O

photo2003、川沿いの枯れ草

03年 鶴見川

 歌の題名は、それなりに苦労することが多い。
ただし、多い割には、僕の属したグループでの歌も、その後のソロ時代も
安易のそしりをまぬがれない題名も、また多い。

 その最たるものが『・・・の歌』であろうか。
そうして、僕の代表曲と言われるものが、実はこれである。

 『出発(たびだち)の歌』


 その後のこの手の題名を列挙してみると、これまたすごいl数だ。

 『終わりのない歌』 『花の季節の歌』 『とんぼの歌』 『海賊の歌』 
『さよならの歌』 『お月様の歌』 『もぐらの歌』 『長い歌』・・・

これが僕の作詞に限らずに、僕が参加したころの六文銭時代までさかのぼると、

 『かっぱらいの歌』 『追放の歌』 『ゲリラの歌』 『ネコの歌』 
『十二月の歌』 『ゲンシバクダンの歌』 と、倍増する。

 ちなみに、一般的な唱歌、童謡から、このタイプを思いつくままに挙げてみる。

 『母さんの歌』 『四季の歌』 『惜別の歌』 『浜辺の歌』 『三つの歌』
『ゆりかごの歌』 『山男の唄』 など。

 同じように流行歌では、
 
『越後獅子の歌』 『新妻にささげる歌』『カチューシャの歌』 『ゴンドラの歌』 などか。
 フルクナイ?


 さまざまな事情によりこうなったのだと思うけれど、僕のうがった解釈はこうだ。
 つまり、タイトルは一切考えないで、書き始め、そして完成した場合だ。
そして、あらためて題名をと思ったとき、大抵は歌詞の中から、
まあ、こんなところだろうと言うものがあるのだ。
 中に不幸にして、それが見つからないケースがある。
きっと、流行歌の場合でも、同じようなことなのだろう。

 しかし、僕カンケーでは、ちょっとオオクナイ?
単に、ずぼらですか。
 
と、ここまで書いて、また気がついた。
もしかしたら、歌いだしをそのまま題名にしたりしていない?

 していました。
以下です。
『五月雨川』 『引き潮』 『冬のロボット』 『平原にて』 『ルノアールの雲』 
『二つの水たまり』『なつのあさ』 『林檎撫づれば』
 『みどりの蝉』 『風が吹き抜けて』などなど

六文銭までさかのぼると、
『面影橋から』 『雨が空から降れば』 『春は日傘の』 『おもちゃの汽車』 
『小さな動物園』『それから』 『こわれました』・・・

 
 ある著名な作詞家が、タイトルをレタリング風に、原稿用紙の最初に書き、
それにペンで飾りをいれたりしながら、考えていくというワザを使うのを、知っている。
 もちろん、この場合、はじめに題名を考えたと言うことだ。

 しかし、考えようによっては、いい加減な方のタイトリングの過程も、
もしかしたら、それほど不自然じゃないかもしれない。
 土台、古くは歌詞を書くのと、文学詩を書く人間とは重なっていたのだし、
それら、文学詩が、題名を歌詞ほど、重んじていたとは思えない。
 すると、題名なんて、たいした問題じゃないと、開き直るセンも見えてきたかな。


 タイトリングの過程を分類、整理すると、このようなことか。

 1  歌いだしを、そのまま使用する。

 2 最重要と思われる単語を歌詞中より拾い使用

 3  2、の亜流として、それを、・・・の歌、とする。

 4  テーマを歌詞中より拾わず、別の言葉として題名を作る。
 

 では、この歌、『星雲の群れと僕らの会話と一体どっちが本当だっただろう』は、
どんな分類ができるかというと、2と言えるのだろう。
 歌詞で、大切な言葉は、歌いだしと同じように、ラストに来る場合もある。
 そして、この歌では、タイトルを考えるとき、ほとんど悩まなかった。
ちょっと長すぎないかとは、思ったものの、ほぼ、即断であった。
 長すぎるところが“売り”との思いもきっとあったに違いないけれど、
今読み返しても、これ以外には考えにくい。

 ほんとうは、ここで、この歌の分析をしたいところなのだが、
悩んでみたものの、やっぱり無理のようだ。
 正直言って、解説できるほど、本人にもよくわかっていない。
 それに、解説が向く歌と、向かない歌とがあるような気もする。

 しかし、自分にとって、わかるかもしれない方法はある。
もう一度コンサートで歌ってみることだ。
それが、案外『解説』でもあったりするのだろう。




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